藤田嗣治「寝室の裸婦キキ」
マン・レイといえば、モンパルナスのキキ。
彼女は10年近くマン・レイと共に暮らし、
数々の写真のモデルをつとめました。
当時モディリアーニやキスリングも彼女をモデルに起用しましたが、
実はキキがモデルとして脚光を浴びたのは
ある日本人画家の作品がきっかけでした。
Nu couché à la toile de Jouy(1922)
Léonard-Tsuguharu Foujita
画家の名前は藤田嗣治。
1922年に発表した作品名は「寝室の裸婦キキ」。
闇を統べるかのような挑発的な瞳と乳白色の肌は
サロン・ドートンヌで一大センセーションを巻き起こし、
藤田を一躍時代の寵児に押し上げます。
一方モデルをつとめたキキも注目を集め、
モンパルナスの女王としてもてはやされるようになります。
その後、藤田はエコール・ド・パリを代表する画家の一人として
確固たる地位を築き、フランスから勲章を与えられるほどの存在に。
一方のキキは恋人マン・レイの被写体として活躍し、
1926年には雑誌ヴォーグに発表された「黒と白」で
その存在感を世に知らしめます。
Black and White(1926)
Man Ray
藤田嗣治とモンパルナスのキキ、2人の運命を狂わせたのは戦争でした。
1933年、藤田は日本に帰国し、やがて陸軍から請われて
国民を鼓舞するための戦争画を手掛けるようになります。
しかし戦後はこの行為を非難され、自身の境遇に嫌気がさした藤田は
再びフランスへと戻り、1959年、洗礼を受けて
レオナール・フジタと名乗るようになります。
キキもまた戦争に翻弄され、悲惨な末路をたどります。
マン・レイと別れた後は反ナチス運動に参加するものの
身の危険を感じてモンパルナスから故郷のブルゴーニュへ。
終戦後のパリでは麻薬密売で逮捕され、
1953年、失意のうちに病に倒れ、世を去ります。
モンパルナスの女王として多くの芸術家に愛されたキキですが、
葬儀に訪れた芸術家仲間はたった一人、藤田だけだったとか。
当時パリで活動していたマン・レイは既に結婚しており、
葬儀には足を運ばなかったようです。
キキの美しさは絵画と写真によって永遠に残るものの……
なんとも哀しい結末です。これが芸術家の人生というものなんでしょうか。
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