コロー「モルトフォンテーヌの想い出」とシュティフター「森ゆく人」
渇いて灰色になった畑の中に、森は濃紺の帯となって連なっていた。
やがてボヘミアの森のさらに濃紺の緑が灰色の雲と混ざり合い、
境界線も判然としないままに雲に溶け込んでいた。
これを見ている青年の傍らでは、すでに野草の立ち枯れの茎が
幾本か微風に煽られ、かさこそ音をたてていた。
この微風は永い静かな時のあとに沸き立ち、事の急変を告げるものだった。
(アーダルベルト・シュティフター「森ゆく人」より)
Souvenir de Mortefontaine(1864)
Jean-Baptiste-Camille Corot
こちらはカミーユ・コロー「モルトフォンテーヌの想い出」。
ルーブル美術館所蔵の作品で、
2008年に「真珠の女」とともに
「コロー 光と追憶の変奏曲」で来日してましたね。
銀灰色の霧に煙る、追憶の情景。
物悲しさと安らぎが同居した、抒情あふれる一枚です。
さて、冒頭で引用したシュティフターの「森ゆく人」ですが
そこで描かれる森が、まさにコローの森だと感じたのです。
物語の主人公は、「森ゆく人」と呼ばれる老人ゲオルク。
彼は好んで森を訪れ、ルスティネ(蝶)を集めて静かに暮らしています。
森の情景と、番小屋の少年との交流、別れが語られたあとで、
場面は老人ゲオルクの前半生へ転じます。
牧師の息子として生まれたゲオルクは、
両親を亡くし、放浪を続けるなかでコローナという女性と出会います。
2人はやがて恋に落ち、共に暮らすようになるのですが……。
ゲオルクとコローナの間には子どもができず、
それが理由で2人は別れを選ぶんですね。
「人間の最も大切な義務の一つ、それは子どもを持つこと」という理由で。
切り出したのは、ゲオルクではなく妻のコローナ。
「人間の心の美しさと頑さのゆえに」彼女は別れを迫るんですが、
けれどこの時点では彼女の頑さが不可解でさえあるんです。
ところが――。
Route près d'Arras, dit aussi LesChaumières(1853-58)
Jean-Baptiste-Camille Corot
別の女性と再婚し、父親となったゲオルクは
旅の途上で偶然、コローナと出会います。
かつて幸せな日々を送った土地とよく似たボヘミアの森で2人は再会し、
そこでゲオルクは、コローナの現在を知るわけです。
ここに至って、深い霧がはれるように
謎めいた別れの理由が、真実が浮かび上がってくるんです。
はっきりと作中で語られるわけではないんですが、
自身の現在を告げるコローナの一言が、
鬱蒼とした森に差し込む一条の光のように
読み手の心に突き刺さり、静かな感動をもたらすのです。
「森ゆく人」の世界感はあまりにも美しく静謐で、
彼の描いた森は悔いや憂いや哀しみを優しく包み込みます。
コローの燻し銀の森と対峙した時と同じような安らぎがそこにあるんですよね。
コローの「モルトフォンテーヌの想い出」は
「ほとんど何も描かれていないが、ここには印象があり、
芸術家から観者へと伝えられている」と評された作品。
分かりやすいドラマがあるわけではなく、
ただただ内省的で、精神的な自然が描かれます。
一方のシュティフターも、
「偉大なものは、劇的なまれにしか起こらないことよりも、
ささやかでありふれた日常的なものにこそあらわれている」と考えていたとか。
それは「森ゆく人」にも言えることで、
さしたる起伏もなく淡々と物語が進むからこそ
2人の再会のシーンが、そこで気づかされる真実が
静かに心に沁み渡るのだと思います。
ニーチェは「繰り返して読むに値する、ドイツ文学の宝」と
シュティフターを評しています。
たった一度で読むのをやめるのは、何だかもったいない。
そんな気持ちにさせられる一冊です。
ぽちっとお願いします♪
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