高島野十郎「月」と「蝋燭」
昨年、DIC川村記念美術館の「フラワースケープ」で作品を見て以来
ずっと気になっていた大正・昭和の画家がいます。
久留米出身の写実画家、高島野十郎。
終生家族を持つことなく、画壇と交わることもなく
やがてそのまなざしは光へと向けられ、
闇へと収斂していきます。
Moon(after 1961)
Takashima Yajuro
高島野十郎「月」。
福岡県立美術館の「光をさがして」というコレクション展で
この作品と出会いました。
樹々の向こうにぽっかりと浮かぶ満月。
なんということもない夜空の情景ですが、
なぜか立ち去りがたかったのは
孤高の光にあてられたからでしょうか。
月ではなく、闇を描きたかった。
闇を描くために月を描いた。
月は闇を覗くために空けた穴だ。
野十郎はこんな言葉を残しています。
金色の穴から覗いた闇は、
画家の目にどんなふうにうつったのでしょうか。
「生まれたときから散々に染め込まれた思想や習慣を
洗ひ落とせば落とす程写実は深くなる。
写実の遂及とは何もかも洗ひ落として
生まれる前の裸になる事、その事である」とも語っており、
最後に残ったものが闇と光だったのかもしれません。
展覧会では、野十郎の作品が計12点も展示されていました。
月を描いたもの、秋の太陽を描いたもの、そして——蝋燭。
机上に置かれた白い蝋燭とその炎だけが描かれた小品は
ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの精神的な光を思わせますが
蝋燭のみに焦点を絞ったことでより内省的な印象を受けました。
高島野十郎「蝋燭」。吸い込まれそうな炎。
野十郎はごくごく私的に蝋燭の絵を描き、
「気に入らなければ焚き付けに」と周囲に配っていたそうです。
「私の《蝋燭》は絵馬なのだよ」とも。
隠遁者のような生活を送った野十郎ですが、
やはり何か人に求めるものがあったのかもしれないですね。
一人で生きていくのはつらいから。
そうと分かっていて一人で生きて行くのは、もっとつらい。
……ちょっと私情が混じっちゃったな。
最近また忙しくて、いろいろ思うことがあって。
それでは最後に、高島野十郎の辞世の句を。
花も散り世はこともなくひたすらにたゞあかあかと陽は照りてあり
今日も明日もがんばろう。
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