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足立区綾瀬美術館 annex

東京近郊の美術館・展覧会を紹介してます。 絵画作品にときどき文学や音楽、映画などもからめて。

ユトリロ「パリのサン=セヴラン教会」

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ああ、ひなびた一画があり、
自由気ままな生活の習慣が残っているあのモンマルトル!
他とは異なる、自主独立の雰囲気のあるパリのあの地区には、
何と記すべき話が多いことだろう!
……もし思いが叶うなら、
……石灰塗りの家々の並んだ道の絵か、何かを描きたい。

(モーリス・ユトリロ)


ユトリロ「パリのサン=セヴラン教会」
Eglise Saint-Séverin à Paris(1910-12)
Maurice Utrillo





前回はユトリロの色彩寄りの話をしましたので、
今回は「白の時代」のお話を(順番が逆ですが)。
アルコール中毒に苦しむ一方で絵画に興味を持ったユトリロは、
やがて石灰やセメント、卵の殻などを絵具に混ぜて
独自の白を生み出します。
苦悩をまぶしたようなざらついた肌合いは、
同時代のエコール・ド・パリの画家、藤田嗣治の
磁器のような白とは実に対照的。
この白を建物の壁面などに用いて
1910年から14年ごろにかけて描いた風景画が
いわゆる「白の時代」に属します。


なぜこんな風に、特異な白にこだわったのか。
「パリの思い出にたったひとつしか持っていけないとしたら?」
という質問に対して、ユトリロは「漆喰の欠片」と答えています。
幼いころ、彼は学校の帰り道に路上にしゃがみこんでは
漆喰の欠片で遊んでいたのだとか。
母親にかまってもらえず、孤独を慰めるために……。
ユトリロにとって、白(漆喰)は唯一自分を表現できる、
代え難い存在だったのかもしれません。


ユトリロ「ラパン・アジル、モンマルトルのサン=ヴァンサン通り」
「ラパン・アジル、モンマルトルのサン=ヴァンサン通り」。前回とほぼ同じ構図。



ユトリロの母親については、以前少しだけ紹介したことがあります。
名前はシュザンヌ・ヴァラドン。
ルノワールやドガのモデルをつとめ、自身も画家だった女性です。
シングルマザーとして18歳のときにユトリロを生み、
今でも父親が誰だったかは分かっていません。
画家のシャヴァンヌや作曲家のエリック・サティなどが
父親候補としてあがっていますが、真相は不明です。
ユトリロが生まれてからもヴァラドンは恋に仕事に忙しく
育児は祖母にまかせっきり。
両親のぬくもりを知らずに育ったユトリロの心は荒み、
学校でのいじめも影響して酒におぼれていきます。
以降、学校は中途退学し就職しても長続きせず、
酒場で暴れることも多かったとか。
そして1904年、21歳のときに精神病院に入院させられるわけですが、
このときの主治医に絵を描くことをすすめられたことが
ユトリロのその後の人生を決定づけます。


ルノワール「都会のダンス」(参考)
参考:ルノワール「都会のダンス」。モデルはヴァラドン。ルノワールも彼女に惹かれていた。



母親のヴァラドンが画家だったにもかかわらず、
ユトリロはほとんど独学で絵画制作を身につけていきます。
作風も、ヴァラドンは人物画が中心だったのに対して
ユトリロはほとんどが風景画。
寒々しく白で塗固められた、華やかさとはほど遠い世界。
こうして白の時代を迎え、
彼の作品は徐々に認められるところとなりますが
ヴァラドンはユトリロの才能をなかなか認めてくれなかったそうです。
彼女の意識が変わったのは、ユトリロの作品が高値で売れることを知ったとき……。


シュザンヌ・ヴァラドン「ゴムパチンコで遊ぶユトリロ」
参考:ヴァラドンが描いた、少年時代のユトリロ。母親の眼差しで息子を見つめることもあったのだと、そう思いたい。



1914年に第一次世界大戦が始まると、
ヴァラドンは恋人(しかもユトリロの親友)を追いかけて姿を消してしまい
翌年には祖母が亡くなってしまいます。
孤独は深まるばかりで、ユトリロはますます酒に溺れるようになります。
それでも絵筆を握るときだけは手の震えが止まったといいますから、
やはり彼にとって絵画は特別な拠り所だったのでしょう。
そして、白——。
日本橋高島屋のユトリロ展では、
教会やサクレ=クール寺院を描いたものが多く見られました。
彼は孤独と苦悩をカンヴァスにぶつけるとともに、
救いを求めて白にすがったのかもしれません。
静かなる祈りが、そこに込められているような気がして。


ユトリロ「《小さな聖体拝受者》、トルシー=アン=ヴァロワの教会(エヌ県)」
「《小さな聖体拝受者》、トルシー=アン=ヴァロワの教会(エヌ県)」




ちょっと長くなりましたが、もうひとつだけ(蛇足です)。
ユトリロ展を見ていて、思い出したのが俳人の種田山頭火でした。
ユトリロよりも1年先に生まれた山頭火もまた、
母親に関するトラウマを引きずり酒に溺れ、出家という生き方を選びます。
山頭火が10歳のときに母親が井戸に身を投げて自殺、
大学を中退して引き継いだ家業の酒造も破産、
出家してからも泥酔して何度も留置場に入れられ
弟も自殺、自身も自殺未遂をはかるなど
ある意味ユトリロよりすさまじい生涯なわけですが……。
飄々として力の抜けた自由律俳句にはやはり寂寥感が通底しており
ひとつところに閉じ込められたユトリロが白い街並を描き続けたのに対し
ひとつところに留まれなかった山頭火は、
放浪のなかであらゆる事物を歌にしていきます。
それでは最後に山頭火の句をいくつか紹介しましょう。



どうしようもない私が歩いてゐる

まつすぐな道でさみしい

この道しかない春の雪ふる

枯れゆく草のうつくしさにすわる

ころり寝ころべば青空

山のしづけさは白い花





今日も明日もがんばろう。
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4 Comments

なつみ says..."ユトリロ"
確かに長かったけれど、すんなり心に落ちてきて豊かに広がる素敵なユトリロについての文章でした♪今日も1日がんばれそうです。ありがとう。
2013.06.24 12:20 | URL | #- [edit]
まろ says..."原風景"
私が生まれて初めて観た展覧会がユトリロでした。
中学二年生の春だったと記憶しています。
なんと淋しい絵だろう・・・泣きたくなりました。
以来、ユトリロ展があるたびに足を運ぶようになり
一つの「原風景」のようになってしまいました。
彼ほど壮絶な人生ではありませんが、私もちょっと
似たような境遇で妙な親近感がありました。

松本俊介や佐伯祐三に心惹かれるのもやはり
ユトリロの影響があるのかも知れませんね。
山頭火にはちょっと意表を突かれましたが
なるほど、言われてみれば確かにそうですね。
私は若山牧水を思い浮かべるのですが・・

とってもいい文章で心に響きました。
2013.06.25 02:32 | URL | #Koy3t6Qg [edit]
スエスエ201 says..."Re: ユトリロ"
> なつみさん

こんばんは。コメントありがとうございます。
そう言っていただけると、がんばって書いた甲斐があるというもので(笑)
うれしいです♪
2013.06.26 01:10 | URL | #- [edit]
スエスエ201 says..."Re: 原風景"
> まろさん

こんばんは。
そうでしたか、思い出の画家なのですね。
ユトリロの作品は寂しいけど、不思議なやさしさがあって
同じような風景の連続なのになぜか引き込まれてしまいます。
個人的には、ルオーに近しいものを感じたりしたんですが
よく考えたらあまりにかけ離れてるので書きませんでした(汗)

若山牧水もなるほど、酒と孤独を歌った歌人ですね。
白鳥はかなしからずや。

2013.06.26 01:19 | URL | #- [edit]

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