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足立区綾瀬美術館 annex

東京近郊の美術館・展覧会を紹介してます。 絵画作品にときどき文学や音楽、映画などもからめて。

正岡子規「あづま菊」と最後の手紙

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東京藝術大学大学美術館へ行くときは、
いつも千代田線の根津駅から歩いていきます。
このあたりはお寺が多いせいかあちこちに花屋があり、
街並ものどかで足の運びがふわりと軽くなるんですよね。
吹く風がここちよく、額にうっすら汗がにじんできたころに目的地に到着。
「夏目漱石の美術世界」展、2度目の鑑賞です。
目当ては後期から展示の琳派のあの作品だったんですが……
そのお話はまたの機会にするとして、
今日は一番印象に残った作品を。


正岡子規「あづま菊」
Chrysanthemums(1900)
Masaoka Shiki




正岡子規「あづま菊」。
明治33年、熊本で教職についていた漱石に贈った作品です。
「コレハ萎ミカケタ処ト思ヒタマヘ
画ガマヅイノハ病人ダカラト思ヒタマヘ
嘘ダト思ハバ肘ツイテカイテ見玉ヘ」とあり、
結核発病から5年を経て、苦しい闘病のさなかに書かれたことが分かります。
左側に書かれた短歌は
「あづま菊いけて置きけり火の国に住みける君の帰りくるかね」。
友の帰りを待ちわびて、その思いを絵と歌に託したのでしょう。


漱石は子規から受け取った「あづま菊」と2通の手紙を合わせて、
掛け軸にして生涯大切にしたといいます。
会場ではこの掛け軸が展示されていたんですが、
前に行った時は少し急いでいたため、
「あづま菊」以外の手紙の文面を見落としていました。
今日あらためて見て、あぁ、この手紙だったのか……と。
それは、子規が漱石にあてて書いた最後の手紙でした。
明治34年11月、つまり死の前年。
ロンドンで留学生活を送る漱石にしたためた文章は
壮絶な書き出しではじまります。


僕ハモーダメニナツテシマツタ、
毎日訳モナク号泣シテ居ルヤウナ次第ダ、
ソレダカラ新聞雑誌ヘモ少シモ書カヌ。
手紙ハ一切廃止。ソレダカラ御無沙汰シテスマヌ。
今夜ハフト思ヒツイテ特別ニ手紙ヲカク。
イツカヨコシテクレタ君ノ手紙ハ非常ニ面白カツタ。
近来僕ヲ喜バセタ者ノ隨一ダ。
僕ガ昔カラ西洋ヲ見タガツテ居タノハ君モ知ツテルダロー。
ソレガ病人ニナツテシマツタノダカラ殘念デタマラナイノダガ、
君ノ手紙ヲ見テ西洋ヘ往タヤウナ気ニナツテ愉快デタマラヌ。
若シ書ケルナラ僕ノ目ノ明イテル内ニ今一便ヨコシテクレヌカ(無理ナ注文ダガ)。
(中略)
僕ハトテモ君ニ再会スルコトハ出来ヌト思フ。
萬一出来タトシテモ其時ハ話モ出来ナクナツテルデアロー。
実ハ僕ハ生キテヰルノガ苦シイノダ。
僕ノ日記ニハ「古白曰来」ノ四字ガ特書シテアル処ガアル。

書キタイコトハ多イガ苦シイカラ許シテクレ玉ヘ。




このとき、子規の病状はいよいよ重く
結核菌が体中を食い荒らし、背中の下には大きな穴が開いていたといいます。
激しい痛みと極限の精神状態で、死を思わずにはいられなかったでしょう。
手紙のなかで書かれている「古白曰来」ですが、
古白は明治28年にピストル自殺した子規の従弟、藤野古白のこと。
「古白がこっちに来いと言っているようだ」と……。


西洋という新天地で生きる漱石を思い、
病床でしたためた文章はあまりに素直で飾るところなく、
それだけに胸を打つものがあります。
羨みも寂しさも隠さなかったのは
もう会えないと分かっていたからでしょうか。
漱石はこの手紙を受けて、ロンドンでの暮らしぶりを書いて返送しますが、
再会はかなわず子規は翌年秋に世を去ります。


手向くべき線香もなくて暮の秋



漱石が子規の死を悼み、捧げた句のなかにはこんなものがあります。
大志を抱きながら果てていった友に対し、
漱石の胸中はいかばかりであったか。
「あづま菊」とともにこの手紙を掛け軸にしたのは、
友を忘れぬためであり、自身を叱咤するためであったのかもしれません。






今日も明日もがんばろう。
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